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契沖さんって、どんな人
尼崎市は契沖の生誕の地であります。現在も尼崎城の南側と北側には、上記の石碑が
設置されおり、以下のような言葉が刻まれています。
古学の祖 契沖阿闍梨
寛永17年(1640)、契沖(けいちゅう)は、尼崎藩主青山幸成に250石(こく)で仕えた下川元全(もとたけ)の三男として、この地に生まれます。(略)11歳で大阪今里の妙法寺に入り、真言宗の僧となりますが、それらは契沖の生き方の基盤となります。(略)
24歳で阿闍梨(あじゃり)位を授かりますが、出世を望まず、己(おのれ)の信じる仏道者の道をひたすら歩みます。そしてよき理解者でスポンサーの水戸光圀(みとみつくに)の死に殉ずるかのように、その七七日(なのなのか)の元禄14年(1701)1月25日、62年のダイナミックな生涯を閉じます。
この間、契沖は、40歳の半ば頃、光圀から依頼の『万葉集』の全注釈書『万葉代匠記』(まんようだいしょうき)を始め、その後の歴史的仮名遣(かなづかひ)を発見、体系化した『和字正濫鈔』(わじしょうらんしょう)などを従来にない論理的実証法で著(あらわ)し、“古学(こがく)の祖(おや)”と称(たた)えられます。(略)
また、契沖には、六千余首を収めた『漫吟集類題』(まんぎんしゅうるいだい)などの歌集があります。(略)契沖は、歌は“果無(はかな)きことを詠む”と人間の自然の感情を詠むといいます。(略)真実は、自由で、清澄な心の眼でしか見えないからです。
私達は、真実を求めて、新しい時代への道を切り開いた日本の知的財産契沖を敬愛し、その業績を顕彰してきましたが、創立十周年を迎え、地域の誇りの象徴として永く広く人々の心に記憶されることを期し、この碑を建立しました。
平成17年10月18日
(注)石碑には縦書きで、かつ漢数字で記載されています。
契沖研究会
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